2011年11月18日

検非

芋けんぴと芋かりんとうは同じ物の二つの名であるらしく、僕としては芋けんぴという名称の方に馴染みが深いのだが、さるお方のご意向であるから芋かりんとうと呼ぶ様に心掛けている。

芋かりんとうを作るのは二度目であった。さつまいもを切るはしから鍋の油に漬けて行き、切り終わり次第に火に掛ける。程々に揚がったら油を切っておき、別の鍋で砂糖水を煮立てたものにこれを放り込む。黒ごまを振って混ぜ、全体に砂糖が絡んだら火を止めて鍋を煽る。芋が互いにくっつかなくなれば出来上がりである。何にせよ、揚げた時点で十分食べられるものになっているのだから、その後の過程はいい加減でよろしい。砂糖が水飴状になってしまったらなってしまったで、細切りの大学芋だと思えば良いのである。

緑茶を啜りつつ芋かりんとうを齧っている内に、なぜかふと昨夜の星空を思い出した。満天の星空とは言えぬまでも、不断ならばシリウスが漸くこれくらいの明るさだろうという位に鋭く輝いている星が幾つも見えて、また周りにそれよりは暗いものもちらほらし、いかに澄んだ冬の空気のこととはいえ夢の様だ、と思ってよくよく記憶を辿ってみると実際夢の話であった。おめでたいことである。

宵ごろ同居人から、獅子座流星群を見に行くと聞いていた為に、その印象が残っていて星空の夢を見たのだろう。解り易くて宜しい。なお今日聞いたところによると、結局は曇天のため流星はあまり見られなかったそうだ。

それにしても、夢を見て後から覚えているというのも最近あまりないことだ。覚えていても大抵ろくな夢ではない。最も多いのは大学に学籍を持っている頃の夢で、それも必ず「ああ、これではいよいよ単位が足りない。ぼんやりしていたばかりに」と思うという内容である。

XKCD に正にそういった夢についての漫画があった。つまり僕に限った経験でもないのであろうけれど、それを喜んでいいのかどうかは悩ましい。

2011年11月13日

つらつら

思いついた時の更新ということに予めしておいても、やはりあまり長らく放置していると気懸かりになって来るものだ。

昨日は高校の同期数名と池袋で会って食事などしたので、その時の話を書くのも良かろうけれども、いかに符牒を使っているとはいえ、そう何でもかでも書く訳には行かない様にも思う。嘗てはあまりそんなことを気にせず、面白い話題が挙がれば誰某がこう言いましたと書いていたものだが、あの頃が無神経だったのか、それとも現在神経質になり過ぎているのか、両方ありそうなことで然かとは判じ兼ねる。

結局自分の事だけを書いているのが一番無難だということになる。ではと言って、自分の事で恥じる所なく書ける様な話がどれだけあるかとなると、もう夕飯の献立くらいしかないのであり、そうして食べる事ばかり書くのもそれはそれで何と無し卑しい感じがする。恐らくそれは物を食べるという行為に対する偏見がある為でもあり、また外聞を取り繕うのに食事の話題を利用している自覚がある為でもあろう。

誰に命ぜられている書いているものでもないのに、なぜブログで外聞を取り繕わねばならないのか、いよいよ意味が分からないのではあるが、兎にも角にもつらつらと、とりとめもない由無しごとを、例の如くに書き連ねておく。

2011年10月17日

助任

近所の魚屋を通りかかると、スッポンが売られていたり、シイラが丸一尾売られていたり、珍しいものが出ていることがあって中々飽きない。これは左程珍しくもないかも知れないが、先日はスケトウダラが店先に寝そべっていた。

スケトウダラかスケソウダラか、ということについては、魚類学者の末広恭雄が、「スケトウダラという学術上の本名が、スケソウダラというふうにまちがえて呼ばれるようになってしまったのは残念である」と自著の中で述べているそうだ。孫引きなので前後は分からないが、これはどの程度まで信頼して良いものか。

学術上の正式名称が「スケトウダラ」と決められているのは事実であるけれども、スケソウダラという呼称がここから「まちがえて」生まれたものかというと、それぞれの呼び方がいつ頃から行われているものか、辿れる限りの記録を辿ってみないことには何とも言えない様に思う。

もっとも、スケトウダラが正式名称と定められた後になってから、これが伝播していく内、どこかで転訛を経てスケソウダラの名が生まれたのだと仮にしても、それが残念がるべきほどのことであるか、僕にはよく分からないのだが。

2011年10月13日

香りの支払い

うなぎ屋の隣に住む吝嗇な男が、その香りで飯を食べていると、ある時うなぎ屋から「匂いの嗅ぎ代」を請求された。そこで小銭を取り出してチャラチャラと音を立て、「匂いだけ貰ったのだから、音だけ支払えば良かろう」と答えた。

……ちくま文庫『桂米朝コレクション4』を読んでいると、「しまつの極意」という落語に、そんな筋の小咄が組み込まれていた。これは『落噺大御世話』という十八世紀末の噺本にも「蒲焼」という題で採録されている、と聞いてはいるが、実際に見たわけではないので知らない。色々なところで引かれる話だという気はする。

妙なのは、これをイタリア語でも読んだことがあるというところだ。先日の「雨月」の一件で、記憶の頼りにならないことには懲りたので、今回は書く前に検索してある。十三世紀末に成立したとされる作者不明の説話集、"Il Novellino" の第九段がそれであった。

http://scrineum.unipv.it/wight/novellino.htm#9

ルーマニアのアレクサンドリアに住むサラセン人同士の間で起こった係争を、スルタンが裁いたもの、ということになっている。他にもトルコではナスレッディン・ホジャという、しばしば頓知話の主人公になる人物の逸話の一つとして、これと同様の話が数えられている様だ。そちらはいつ頃からある話か知らない。

日本へはやはりどこか海外から入って来たのであろうけれども、果たしてどの様な道を経て来たものか。

たとえば落語の「饅頭こわい」などは、中国の『笑府』に収められている小咄が原形となっている。或いはこの「蒲焼」も、中国に類話があったものかも知れず、そこから日本へ入ったのかも分からない。

しかし、幕末にして既に、西洋から題材を輸入していた作家もあった……と、どこかで聞いた様な覚えがうっすらとある。誠に不確かな記憶であるが、ともあれ西洋から直にこの話が日本へ伝わったというのも、強ち無いこととは言えないだろう。

この様なことは真面目に研究している人もある筈だが、思い出したついででいい加減なことを書いておく。

2011年10月11日

Achthundertdreiundneunzig

武器屋の前を通りかかった、と言うと何か悪い冗談の様だが、よく通る道に刀剣を扱っている店があるので、全く文字通りの話だ。

それで武器屋の前を通りかかったのだが、いつもは見ない張り紙がしてある。何かと思って歩き過ぎながら目を遣ると、「警察署の指導により、暴力団関係の荷物預かりはお断りしております」とか、なにかそういう旨のことが書いてあった。

何の事やらよく分からないけれども、最近になってこの張り紙をする様になったということは、警察署から指導が来る以前には暴力団関係の荷物を預かる様な場面がしばしばあったということなのだろうか。

或いは……いや、やはりよく分からない。ともかくあまり穏やかな感じはしない話である。

2011年10月9日

雨暈

雨が降って来た。

昨日、傘立てのことを書きながら思い出していたのだが、どこかの駅に共用の傘というのがずらりと置かれているのを見たことがある。急に雨に降られた日など、手元に傘がない場合には、これを勝手に持って行って宜しい、但し後で都合の良い時に返してくれる様、という仕組みである。確か「駅のおたがい傘(さん)」などと称していた。

どこであったかというと、一時期盛んに使っていた駅で、しかしその時期が過ぎるとすっかり縁遠くなったところであるから、そう考えると恐らく下北沢かどこかではなかったかと推理される。然かとは覚えていない。

これを初めて見た時、江戸時代に同様のことが行われていたという記録をどこかで読んだことが想い起こされ、その時にはどこで読んだかもはっきりしていた様に思うのだが、今では確信がない。ただ、江戸時代の文章で僕が読んだことがあるものなどは数が知れているし、『雨月物語』だろうと見当はつく。

『雨月物語』に傘の話があったのは確かで、例によって怪異譚なのだが、その導入に、共用の傘の風習がどこかの地域のこととして語られていた記憶がぼんやりとある。誰も盗む奴などはいないので偉いものだ、くらいの事も書かれていた気がする。

「雨月」なら先日上野に寄ったついでで古書店で買ったはずで、従って部屋のどこかにはあるに違いないのだが、どこへ積み上げたものやら分からなくなってしまった。そう深くは埋もれていないものと思う。

また、よくよく考えてみればネットで検索しても良いことであって、あらすじくらいは Wikipedia にもあるだろうし、どこかに要約か、もしかすると原文も置かれているのではないか。

しかしそうこう書いている内に雨も止んだ様子だ。一先ずここまでとしておこう。

(追記:Twitter で、『雨月物語』にそんな箇所はない、というご指摘を頂いた。そうなるといよいよどこで読んだものやら皆目見当が付かない……と思う内に、どういう話であったか少し思い出したので検索してみたところ、どうやら『西鶴諸国ばなし』であったらしいことが分かった。しかし、『西鶴諸国ばなし』を読んだ、というはっきりした記憶がない。なにかと併録で一冊に収まっていたものだろうか。そうだとしたらもう一本は恐らく『男色大鑑』だろう)

2011年10月8日

雨傘

唐傘も和傘も同じものを指すらしく、日本の歴史に洋傘というものが現れたせいだろうか、なにしろ紛らわしい話である。

かつては傘の一字でもカラカサと読めたそうで、というか現にカラカサで変換してみると「傘」と出るのだが、これは日本語でカサと言えば元来、頭にかぶる笠の方を指した為であろうか。

単にカサと言うと蝙蝠傘のことを指すのが普通になってから、ああいうものが西洋から入って来る前に日本にあった傘、というので、洋傘に対して「和傘」という言葉がいつ頃か発生したのだろうと憶測する。手元の大辞泉を引いても和傘という語は載っておらず、ことえり4.1も変換してくれないので、そう古い言葉ではないのかも知れない。iPhone の辞書には登録されていた。

大学院のころ、伊文学の先輩に、雨の日には唐傘をさして歩いている人がいた。唐傘にも色々あるそうで、それが蛇の目だったか番傘だったか、そもそも番傘と京和傘というのが別か同じか、はたまたこれらの語は分類の仕方が違うものかも知らないのだが、ともかく今どき物珍しく、しかし見せびらかす素振りも無くて粋に思えたものであった。

どこで買ったものか尋ねた覚えがあるが、さてその答えは忘れてしまった。そうして値段までは気になりながらも何となく訊き逸れ、いま Google で通販を調べてみると、立派な専門店の物は凡そ一万円から、どうかすると四、五万円の物まである様だ。もっともこれは洋傘でもそれくらいの品はあるのかも分からない。しかし、土産物屋で売っている様な和傘は飽くまで飾りで実用には耐えない、などと脅す様なことも書いてあって、何とも難しい。

ところで僕は自転車に乗らないので分からないが、夜間自転車に乗っていると往々職務質問を受けるそうだ。同居人の言うところでは、所謂ママチャリに乗っていると特にそれが多いそうで、もう少し良い自転車に乗っていると格段に声を掛けられにくくなるという。

どういうことかというと、つまり盗難自転車にはママチャリの類が多いということであり、即ち誰かが自転車を盗む時には大抵ママチャリを盗むということだ。思うに、この心理は雨の日に店の前の傘立てから他人の傘を盗む際にも働いているのでは無かろうか。あれは単に勘違いで持って行ってしまっていることも多々あるかと思うが、意図して他人の傘でも持って行ってしまえという時には、やはり何となく、どこでも売っている透明なビニール傘を選ぶのではないだろうか。

足がつきにくいからそうするというより、特徴の無い、いづれも同じ様な傘の方が罪悪感が薄いのではないかと想像するけれども、人に尋ねたわけでもなし、実際の機微は判じ兼ねる。なんにせよ透明なビニール傘を盗んだところが本来の持ち主にとっては親の形見であったとか、そんな危険が少ないことは確かである。

無論、そこを遠慮したからといって褒められたものでは無いのであって、高々数百円とは言えど人の物を盗っているには違いないのだから、物盗りであり早い話が泥棒である。この様な泥棒が白昼堂々……雨の日を白昼と言えるのか知らないし、夜に行えば良いというものでもないのだが、ともかく大手を振って……傘を持っていたら大手は振れないか知らないが、なんにせよ良くある話で済まされているのは、物を盗んでいるという認識が希薄な気がしてならない。

しかもあれは大抵ちょうど入り用の時に盗む物で、概ね同じ時に同じ雨の降っている場所に居るのだから、盗まれる方にとってもちょうど入り用の時に盗まれる羽目に陥るので大いに難儀する。出掛かった店に傘が売っていれば入り直して買うか、或いは傘を盗まれて困るし忌々しいしの腹立ち紛れに、一つ傘立てから他の奴のを盗んでやろう、などというどうにもおかしな仕儀になって来る。

その場で買えば済む話と言ったらそれはそうで、自転車を盗むのに比べたら随分ましと言えないことはないが、まあ五十歩百歩と言ったところではあるまいか。少なくとも、傘立てから人の傘を窃盗する者は、万引き犯のことを兎や角言える身分ではないと思う。買えない訳でもないものを盗んでいるという点に於いては大差のないことだ。

なんの話であったか。そう、院の先輩の唐傘だ。この文を書きながらあれこれ考えていて、ふとその先輩の名前が思い出せないことに気が付いた。姿も声もはっきり覚えている、どんな話をしたかまで幾らかは記憶にあるのに、どうしても名前が出て来ない。なにか、橋を渡り終えて振り向くとただ渓間の暗い淵が果てしなく広がっているかの様な、薄寒い感じがする。

いやこういうものは今忘れていても、後になってみるとなんの苦労も無くスッと出て来たりするものだ、と内心にごまかしながら書き進めている内、拍子で一文字だけ思い出した。そこから、そういえばあの音楽家と同じ苗字であったと連想が働き、しかしその音楽家の名前が思い出せないので先ずはこちらの作品名を検索して、それで漸く判明したことはしたものの、こういうのは思い出した内に入らないかも知れない。

二日より後のことは考えられない、二日より前のことは覚えていない、などと常から嘯いているけれども、これは半ばまで実感である。つまらない様な事に限っていつまでも忘れずにいたりするので、知人からは良くぞそういうことを覚えていると間々驚かれるのだが、実際はもう数年前のことなど霧がかかった様に茫々としていて、自分がどこに居たのやらも分からない始末だ。

深く残らぬ先から洗い流されて行く様な記憶はまだしも、当たり前に覚えていたことがらさえ、久しい折に触れて思い出そうとしてみると、いつの間にやら掻き消されてしまっている。ただもう雨の中の足跡の様に頼りない。

2011年10月6日

詭弁家の道は遠くして

一見して明らかなほどに飛躍した話というのは、愚かな戯言として一蹴してしまうのは簡単で、また大抵そうしてしまっても構わないのだが、うっかり理路を立てて反論しようなどとすると、却って相手の珍妙なロジックの中で道を見失い易い。

これは今日 Twitter で犯した失敗の反省であって、そもそも問題となったのは偶然目にした次の様な発言である。
「ラーメンを食べている人は、ラーメンを食べたいなどと言わない。同様に、死ぬ気がある人は、死にたいなどと言わないはずだ」
なにが「同様に」なんだという話であって、破綻しているのは明らかだ。この様にどこまでも脆弱な詭弁が相手である場合、色々な反論の手順が考えられる。

詳細は省くが、これに対して人の行っていた反論のうち一つに、理路の不備がある様に思われてつい横槍を入れてしまったが、後からよくよく考えてみれば別段不備はなく、僕の方の誤読と視野狭窄であった、という話だ。

僕自身が特定の手法に拘り過ぎていた、また直感に反する論理を正しく追えなかった、というのが最大の問題で、誠に情けないことであった。

詳細を省いたらなんだか分からない記事になったが、まあ、それで良いのだろう。

2011年9月27日

塞ぎの虫は油に弱いとか

デプレッションがややグレート。

素面になって考えれば、気鬱になるべき理由など幾らでも見つかるのではあるが、しかしそれは今さらと言えば今さらの話だ。実感としてはこれぞという明確な原因もなく、恰も何か目に見えないものがゆっくり圧し掛かって来た様である。たとえ、同様の状況に置かれた時、これを怨霊に取り憑かれたと解釈する人があっても驚きはすまい。

そんな次第で何をしても手に付かず、出掛けるのすら億劫で、とよくよく省みれば不断とさして変わらないのではあるけれども、ともかく主観的には、頭に澱が溜まっている様で気が晴れない。

といって徒に焦るのもまた今さらのことであるから、季節の変わり目で調子を崩したのだ程度に考えておくとしよう。悲しみに脂肪酸が効くという実験結果があるそうで、どういうことだか知らないが、取り敢えず夕餉の参考としたい。

以前の僕の正しさについて

かつては僕ももう少し高潔な生き方をしていた様な気がする。

過去の自分と現在の自分との間に矛盾が見出されるというのは、恐らく極めてありふれたことであろう。問題は、それをどの様に解決して行くかである。

過去の自分を否定することは容易い。それは、現在の自分がより正しいことを保証してくれるからだ。

過去の自分を肯定することは容易い。それは、たとえ現在の自分が堕落しているとしても、「本来の自分」には貴い部分があったと思わせてくれるからだ。

それではどちらがより容易いかというと、そんなことを比較しても仕方が無いのであって、或る意見の正しさを、それが過去の自分のものであるか現在の自分のものであるかなどということを基準にして決めようとする事自体が安易かつ姑息的なのである。その様なことからは一旦離れ、当該の問題に改めて第一歩から向き合うべきなのではなかろうか。その結果として、過去の考えが捨てるべきものであると思われた場合には捨て、容れるべきものであれば容れれば良い。

そう思いながら、そうする事を選べないのは、つまり僕が到底高潔などとは言い難い生き方をしているということだろう。ただしそれは、過去の僕がどうであったかに関わらずそうなのだ。

2011年9月22日

青邪神

このブログに記事を書く時は、大抵ぼんやりと文章の全体像が見えている時で、つまり「こういう文章が書けそうだ」と思うと記事を書き始めるのである。

日記を付けていた頃にも、時々そういう風にして書く時はあった。しかし、いざ書いてみると、初期の予定通り行くことは先ず滅多に無い。殊に、何かしら理屈を捏ねる様な内容である場合、書いている内に脇の甘さが如実になり、この点は言っておかねばなるまい、こういう可能性にも言及しておこう、などとやっている間に、段々どうやって落ちをつける積もりだったか分からなくなって来る。

そうしてあれこれ頭を捻っている内に目算よりも二倍も三倍も時間が掛かり、それでも漸くなんとかきれいに纏めることが出来た、という手応えと共に全体を見直してみると、言うまでもない様な当たり前の事を長々と述べているに過ぎなかったりする。

一方、毎日の更新を自分に課していた頃には、逆に、話をどこへ持って行くか一切決めずに書き出さざるを得ない事もしばしばであった。

まあ更新さえすれば良いのだ、ということで、一行書くだけ書いてごまかしてしまうのが殆どだったと思うが、書き始めてみると意外に文章が続いて行く、などということもあり、自分がどんな話題を持っているかというのも中々把握していないものである。

と、今回はあまり構成を予見せずに書いてみた。要するに、先に全体像が見えていようが見えていまいが、僕に関する限り結果はあまり変わらないということだ。

2011年9月18日

時の灯り

どこやらで浮世絵の展示が行われた際、明りに敢えて灯火を用いたという話をかつて聞いた。それが作品の描かれた当時の照明であるから、という訳で、なるほど我々は何を見るにしても畢竟光を見ているのだから、明りが違えば見るものが違うことになる。「何かが或る時代にどう見えていたか」を知るためには、その何かを持って来るだけでは足らず、出来る限りに於いてその時代と同じ明りを用いねばなるまい。

そしてまた、時代によって明りが変わるのは照明器具の所為に限らないのであって、縦え光源が同じでも、どの様な環境に置かれ、どの様な空間を通ってその光が対象物や観察者の眼に届くかが異なれば、やはり多少とも違った明りということになるだろう。

だとすれば、所謂自然の明りとて、恒常に同じではないのである。一日の間、あるいは日ごと、季節ごとの移ろいは言うに及ばず、現代の空と四千年前の空、また四千年後の空を通って届く、その時代ごとの太陽の光も、それぞれ人の感覚で峻別できる程に違ったものであるのかも知れない。

こういった話は突き詰めれば切りのないことではある。ただ、同じ物でも置かれる照明環境により見え方が違うという当然の話を、時代の傾向と共に改めて考えてみたり、更には当時の環境を実際に再現しようと試みるのも面白い。流石に四千年前の自然光を擬してみようなどとなると余程大掛かりであろうし、昭和の一般家庭の明りはどの様であったかというくらいの事であっても、真剣に追究するならば相当の手間だろうけれども、例えば自室に蝋燭を点して、その明りからあれこれ空想してみるくらいのことは直ぐにも始められる。それで何か正しい知識が得られるとは思わない方が良かろうが、愉しみに行う分には害にもなるまい事である。

ところで、所謂「違った角度からものごと見る」のを、英語で "to see sth. in a different light"(異なった明りの下で見る)と表現することがある。これはよく言ったものだと思う。同じ物が異なった光の下で異なった姿を顕すのと同様、違った認識の光を当てれば同じ事柄も違った様相を呈して来るのである。

この認識の光というのも、時代の文脈に因って大きく左右されるものだろう。そうであればこそ、作品鑑賞に話を戻すならば、或る作品が或る時代に於いてどの様に鑑賞されたかを知ろうとすると、当時の人々の認識を形作っていた環境を広汎に調べることが必要となる。とはいえ、そういった研究は文学史なりの専門家に任せておいて良いのであり、好事家の視点から重要になるのは、専門家による堅実な研究の成果によって拓けて来る可能性も含めて、想定する時代を変えれば同じ作品でも様々な見方が出来る、という点だ。

かつ、当時の見方に近づこうとする事だけが唯一の「正しい」鑑賞法であるなどとは、専門家とても決して言うまい。浮世絵を LED の明りで見ることが却って最近になるまで出来なかったのと同様、古典を読むにも現代だからこそ出来る読み方があり、一例としては『神曲』の天国篇についてウンベルト・エーコが、『マトリックス』だとでも思って読むと良い、などと言っていたのもそれであろう。或いは、古典の舞台を現代に置き換えるといった換骨奪胎の手法はしばしば行われるところだが、これもそうした読み替えの発展と言って良いかも知れない。その際、テクスト読解としての妥当性などは少し別の問題なのであり、極端な事を言うならば、逆にダンテが『マトリックス』を観たらどう思ったか、などを空想してみても、多分ダンテに迷惑はかからないことである。(まあそれなりの地獄には堕ちるのかも知れないが)

また、だからと言って現代だからこその読み方に拘る必要も無いし、無理をしてまで変わった読み方をしようと頭を捻るのもやや本末転倒の気味がある。意識して異なった明りの下に持ち出して見たり、様々な照明を想像してみるのも楽しみ方の一つであって、それが楽しいと思えばそうすれば良いし、楽しいと思わなければ敢えてそんなことをしなくても良い。そしてもし目先を変えてみようと望むならば、「時代」というのはその格好の素材である、という、僕に言えるのはただそれだけのことだ。

2011年9月15日

W. Somerset Maugham "The Narrow Corner" 読んだ

読書メーターはここですか。

中国の福州で眼科を生業としている英国人医師ソンダーズは、仕事で南方の島に呼び出された帰りに周遊を思い立ち、偶然出会ったラガー船の船長に近くの島まで乗せてもらう。船に乗っているのは人足を除いてもう一人、美形の若者フレッドで、船長によれば地元オーストラリアで何か事件を起こしたらしく、名士の父によって秘密裡に国外へ送り出されたものという。

一行は嵐を潜り、嘗ては香料貿易で栄えた島に辿り着く。ここで彼らは善意の塊の様なデンマーク人青年エリックに出迎えられる。一見凡庸であったフレッドが、エリックの人格に感化され、その理想主義に触れるに従って変化して行く様子が、ソンダーズ医師のシニカルで興味本位の観察を通して語られる。

医師と著者の視点を行き来しつつ、登場人物の性格や思考を綿密に描写して来る傾向にあるが、その人物というのがソンダーズ医師も含め複雑な性格をしているので、語り過ぎになることを免れている。寧ろ、登場人物の個性こそがこの小説を読む主たる楽しみであった。

展開の骨子に格別驚くべきところは無い一方、明快なクライマックスがあり決して退屈もしない。但し、フレッドの過去が最後に来て一気に語られるのには、そこに来てほぼ始めて現れる人物が大きな役割を担うせいもあって、別の短篇が始まった様な印象を抱く。

もう一つ苦言を呈するならば、これも終盤であるが、先に描写されたディテールの「意味」を登場人物が半ば解説してしまう箇所がある。種明かしをされるようで如何せん興が醒めた。

その様な結構の緩やかさもあり、必読の傑作という感想を持つには到らなかったが、凝縮された文体と、透徹した洞察に裏打ちされた佳作である。時折差し挟まれる評言にも感ずるところがあった。

2011年9月13日

言語とアイデンティティーの面倒な話

「日本の町中でガイジンに声を掛ける際、いきなり英語を使うのは是か非か」という甚だ面倒な話題を見掛けた。

先ず第一に、日本語よりは英語の方が通じる蓋然性が高い、という認識は、一般に共有されていると見て良いだろう。

さてその上で、「○○国人の私に英語で声を掛けるとは不届き千万」と言う人がいたとしたら、それは「利便性よりも私の言語アイデンティティーを尊重しろ」という主張であって、これは中々面倒である。

また一方で、「日本語より英語の方が通じることは多いのだから、英語で話しかけて何が悪いか」と言う人がいたとしたら、「言語など所詮は手段に過ぎぬのであって、お前の言語アイデンティティーなど犬にでも食わせてしまえ」と言っているに等しく、これもこれで面倒である。

僕としてはこういう面倒な話には関わり合いになりたくないので、どうしてもという必要に迫られた場合、相手がどこの人に見えても、日本にいる限り取り敢えずは日本語で話しかけることにしている。まさか日本に来ていて「日本語で話しかけて来るとは!」と腹を立てる奴はあるまい。

それで日本語が通じなければ、誠に残念でしたで終わっても別に仕方のないことであると思うのだが、親切な人は他に自分の駆使できる言語の内から相互理解の手段を模索するのも宜しかろう。

そうしてその結果、真っ先に出て来たのが英語であったとしても、これはもう日本という国の言語状況がそうなのだと思って諦めて貰うより他ない。

結局英語を使うのだとしたら、最初に一度日本語で話しかけるだけ面倒ではないか、と言われるかも知れないが、はじめから面倒な話だと書いている。

2011年9月10日

家政婦のこと

萌えない方のメイドさんの話をしよう。

仄聞するところによると、出張先の国によっては、現地で暮らすにあたってメイドを雇うのは、もう決まりごとの様なものだそうだ。いや、今なおそうなのかも実は知らない、少なくとも二十年ほど前はそうだったということである。「本当は嫌なのだが仕方なく雇っていた」という話を複数の人から聞いている。

ところでこの場合「メイド」という語を使うのが相場である様で、「家政婦」と言っていけないものか、「女中」なり「お手伝いさん」との違いはなんであるのか、もう一つ諒解していないのだが、ここでは慣習に従ってメイドと書くことにしておこう。

さておき、その様な出張経験のある知人から聞いた、そのまた知人についての話だから、これはもう随分出所が曖昧になるけれども、ともかく聞いたことを書いておく。

一つ目は、出張になった最初のころに小さな子供が二人いて、メイドにもその世話をさせていたという人の話。それから何年も同じ人を雇い続けていたので、もうすっかり家族の一員という風情であったそうで、子供の方でもよく懐いていたということだ。

それでいざ出張が終わって帰国しようという段になったら、子供の方でもメイドと別れるのが嫌で泣くし、ついにはメイドの方でも泣き出して、このさき給料は要らない、旅費も自分でなんとかして見せる、どうか一緒に連れて行って欲しいと言い始めたそうである。もとより無理なことであって、結局は別れて一家は本国へ、メイドは同地に留まったが、説得が大変で大いに弱ったという。

そういう事もあるのだろう。

二つ目、これは出張の終わり頃に小さな子供がいた夫婦の話だが、やはり一人のメイドをずっと雇っていたので、お互い家族の様に思っていたという点、先の話と同様である。

さてそれでやはり帰る段の話になるが、空港まではメイドと連れ立って来て、それから夫の方がどこへ行ったのやら知らない、戻って来るのを母子とメイドの三人で待っていた折、子供がトイレへ行きたがったという。

まだ幼少で、一人では行かせられないので、母はメイドにハンドバッグを預けて待たせ、子供に付き添って化粧室に入り、戻って来てみるとメイドはハンドバッグともども姿を消していたそうだ。ハンドバッグにはお金のほか航空券も入っていたので、途方に暮れてしまった、という話。

この話をしてくれた知人が所感を述べるには、「無論メイドの方では金品の入っていることを知っていて魔が差したのだろうが、航空券のことまでは知らなかったのだろう。また長年の付合いですっかり信頼していたメイドに裏切られたのもそれはショックだろうが、そういう誘惑に晒したのはメイドの方にとっても可哀想だよ」とのことであった。

そういう事もあるのだろう。

2011年9月7日

建設厨乙

そういえば Web で under construction という表現を見なくなって久しい気がする。

公開日記を付けるという奇癖を身につけた当時は、よく作りかけのサイトに under construction と書いてあるのを見掛けた。調べたわけではないので減っているかどうか知らないが、今では単に coming soon とか this page is incomplete とか書いておくことの方が多い様な印象がある。また、そもそもこの表現が英語のサイトでも用いられるものかどうかも知らない。

ともあれ当時はよく目についたのである。それでいい加減に作った日記ページのタイトルを Under Construction としたわけだが、今や洒落として死んでしまっているのではないかと急に不安になった。

変える気もないんだけどね。

2011年9月6日

オオスカシバと百日紅

日記じみたことは Twitter でやろう、といった次の記事が日記である。

午頃食事を取ってから家を出て、所用のため三鷹へ赴く。雑木林の脇を歩いていると、目の前をオオスカシバが横切った。

久しぶりに見掛けた気がするのは不断表を歩かないせいであって、そう珍しい虫でもあるまい。一見すると蜂のようにも見える色合をしているが、実際は蛾の一種であるそうで、写真などを見るとなるほど蛾と言われればそうだとも思い、また言われねば蛾とは分かるまいとも思う。

どこで読んだのだったか、「ハチドリを見た」という報告を聞いてよくよく説明させてみると明らかにオオスカシバのことである、などということが時折あるそうだ。いくらなんでも蛾を小鳥と見間違うなどとは馬鹿げて聞こえるかも知れないが、民家の軒先に咲いた花にオオスカシバが群れを成し、あちらこちらに入れ替わり立ち代わってホバリングしながら蜜を吸っているのを見ると、確かにその動きは蜂などとは全く異なるのであり、姿の小さいこともあって何かとても不思議な生き物に見える。オオスカシバという虫を知らないか、あるいはこの虫が花の蜜を吸うことを知らず、またハチドリというものが日本に分布していないことを知らない人であれば、その様な誤解も無理ならぬことと思う。

もっとも、単にオオスカシバのことを「ハチドリ」の名で読んでいるのやも知れないが。

所用を済ませた帰り道、公園の横を通ると、さるすべりの花が咲いていた。

花に詳しくなくとも、さるすべりは幹を見れば一目でそれと知れる。またこの幹がさるすべりという名の由縁でもある訳だが、それにしても何やら滑稽な名前であって、百日紅と書いて「さるすべり」と読ませるに到っては不釣り合いな気さえする。

見掛けた花は百日紅とは書きながら紅よりは薄紫と言うべき色であった。それがどの程度珍しいことであるかは知らない。

一度帰宅した後、買い物に行き、それから夕食を取る。ひよこ豆のカレーにしたのだが、重曹を入れて豆を下煮したら必要以上に柔らかくなってしまった。なかなか油断がならない。

再開/再休止に寄せて

ブログを再開する、という記事を書いて、そのあと数ヶ月も数年も放置する、ということをこれまでに何度やっているか、最後にそれを数えたのがいつであったかすら既に思い出すことが出来ない。

思えば最初に公開日記を付け始めたのが十年ほど前のことで(と振り返るのも「再開」のたびごとではなかったか)、当時は日に二度三度更新するのもしばしばであった。よくぞそんなに書くことがあったものだと、今となっては凡そ呆れるばかりである。

とは言いつつ、現今も Twitter では恥ずべき暮らしの暇に飽かせて日々愚にも付かぬ由無しごとを書き綴っているのであり、実のところ十年前から大して変わらぬことをやっているのではないかという風にも考えられる。

そしてそれは多分、瓦礫を積み上げる様な行為なのだろう。全体として目指す形もなく、ただ雑多なものを拾い集めて、うずたかい小山を成すに任せている。そこには傍目に認め得る様な生産性はあるまい。それでも、その瓦礫の山は僕にとって僕自身の痕跡であり、
言わば自分の為に日々築きつづける墓標なのである。

敢えていま再びブログという出力を持とうとしているのもそういった訳で、積み上がったものを俯瞰するのに Twitter はあまり向かない様に思えたからだ。無論、たまにはこうして 140字を越えるものを書きたくなる気が起こる、というのも理由の一つである。

そうした次第だから、これからは特に日記ということに拘らず、寧ろ日々の報告は Twitter に譲るとして、気の向いた時に、気の向いたことを少しづつ書いて行きたいと思う。それがどの程度頻繁なことになるかは、今のところ分からない。ともあれ、そうして立ち現れて来た瓦礫の山が、たとえ人の目に何らの意味を持たなかったとしても、ただ異様なものとして映ることがあったならば、僕は大いに満足である。