2011年11月18日

検非

芋けんぴと芋かりんとうは同じ物の二つの名であるらしく、僕としては芋けんぴという名称の方に馴染みが深いのだが、さるお方のご意向であるから芋かりんとうと呼ぶ様に心掛けている。

芋かりんとうを作るのは二度目であった。さつまいもを切るはしから鍋の油に漬けて行き、切り終わり次第に火に掛ける。程々に揚がったら油を切っておき、別の鍋で砂糖水を煮立てたものにこれを放り込む。黒ごまを振って混ぜ、全体に砂糖が絡んだら火を止めて鍋を煽る。芋が互いにくっつかなくなれば出来上がりである。何にせよ、揚げた時点で十分食べられるものになっているのだから、その後の過程はいい加減でよろしい。砂糖が水飴状になってしまったらなってしまったで、細切りの大学芋だと思えば良いのである。

緑茶を啜りつつ芋かりんとうを齧っている内に、なぜかふと昨夜の星空を思い出した。満天の星空とは言えぬまでも、不断ならばシリウスが漸くこれくらいの明るさだろうという位に鋭く輝いている星が幾つも見えて、また周りにそれよりは暗いものもちらほらし、いかに澄んだ冬の空気のこととはいえ夢の様だ、と思ってよくよく記憶を辿ってみると実際夢の話であった。おめでたいことである。

宵ごろ同居人から、獅子座流星群を見に行くと聞いていた為に、その印象が残っていて星空の夢を見たのだろう。解り易くて宜しい。なお今日聞いたところによると、結局は曇天のため流星はあまり見られなかったそうだ。

それにしても、夢を見て後から覚えているというのも最近あまりないことだ。覚えていても大抵ろくな夢ではない。最も多いのは大学に学籍を持っている頃の夢で、それも必ず「ああ、これではいよいよ単位が足りない。ぼんやりしていたばかりに」と思うという内容である。

XKCD に正にそういった夢についての漫画があった。つまり僕に限った経験でもないのであろうけれど、それを喜んでいいのかどうかは悩ましい。

2011年11月13日

つらつら

思いついた時の更新ということに予めしておいても、やはりあまり長らく放置していると気懸かりになって来るものだ。

昨日は高校の同期数名と池袋で会って食事などしたので、その時の話を書くのも良かろうけれども、いかに符牒を使っているとはいえ、そう何でもかでも書く訳には行かない様にも思う。嘗てはあまりそんなことを気にせず、面白い話題が挙がれば誰某がこう言いましたと書いていたものだが、あの頃が無神経だったのか、それとも現在神経質になり過ぎているのか、両方ありそうなことで然かとは判じ兼ねる。

結局自分の事だけを書いているのが一番無難だということになる。ではと言って、自分の事で恥じる所なく書ける様な話がどれだけあるかとなると、もう夕飯の献立くらいしかないのであり、そうして食べる事ばかり書くのもそれはそれで何と無し卑しい感じがする。恐らくそれは物を食べるという行為に対する偏見がある為でもあり、また外聞を取り繕うのに食事の話題を利用している自覚がある為でもあろう。

誰に命ぜられている書いているものでもないのに、なぜブログで外聞を取り繕わねばならないのか、いよいよ意味が分からないのではあるが、兎にも角にもつらつらと、とりとめもない由無しごとを、例の如くに書き連ねておく。