2011年9月18日

時の灯り

どこやらで浮世絵の展示が行われた際、明りに敢えて灯火を用いたという話をかつて聞いた。それが作品の描かれた当時の照明であるから、という訳で、なるほど我々は何を見るにしても畢竟光を見ているのだから、明りが違えば見るものが違うことになる。「何かが或る時代にどう見えていたか」を知るためには、その何かを持って来るだけでは足らず、出来る限りに於いてその時代と同じ明りを用いねばなるまい。

そしてまた、時代によって明りが変わるのは照明器具の所為に限らないのであって、縦え光源が同じでも、どの様な環境に置かれ、どの様な空間を通ってその光が対象物や観察者の眼に届くかが異なれば、やはり多少とも違った明りということになるだろう。

だとすれば、所謂自然の明りとて、恒常に同じではないのである。一日の間、あるいは日ごと、季節ごとの移ろいは言うに及ばず、現代の空と四千年前の空、また四千年後の空を通って届く、その時代ごとの太陽の光も、それぞれ人の感覚で峻別できる程に違ったものであるのかも知れない。

こういった話は突き詰めれば切りのないことではある。ただ、同じ物でも置かれる照明環境により見え方が違うという当然の話を、時代の傾向と共に改めて考えてみたり、更には当時の環境を実際に再現しようと試みるのも面白い。流石に四千年前の自然光を擬してみようなどとなると余程大掛かりであろうし、昭和の一般家庭の明りはどの様であったかというくらいの事であっても、真剣に追究するならば相当の手間だろうけれども、例えば自室に蝋燭を点して、その明りからあれこれ空想してみるくらいのことは直ぐにも始められる。それで何か正しい知識が得られるとは思わない方が良かろうが、愉しみに行う分には害にもなるまい事である。

ところで、所謂「違った角度からものごと見る」のを、英語で "to see sth. in a different light"(異なった明りの下で見る)と表現することがある。これはよく言ったものだと思う。同じ物が異なった光の下で異なった姿を顕すのと同様、違った認識の光を当てれば同じ事柄も違った様相を呈して来るのである。

この認識の光というのも、時代の文脈に因って大きく左右されるものだろう。そうであればこそ、作品鑑賞に話を戻すならば、或る作品が或る時代に於いてどの様に鑑賞されたかを知ろうとすると、当時の人々の認識を形作っていた環境を広汎に調べることが必要となる。とはいえ、そういった研究は文学史なりの専門家に任せておいて良いのであり、好事家の視点から重要になるのは、専門家による堅実な研究の成果によって拓けて来る可能性も含めて、想定する時代を変えれば同じ作品でも様々な見方が出来る、という点だ。

かつ、当時の見方に近づこうとする事だけが唯一の「正しい」鑑賞法であるなどとは、専門家とても決して言うまい。浮世絵を LED の明りで見ることが却って最近になるまで出来なかったのと同様、古典を読むにも現代だからこそ出来る読み方があり、一例としては『神曲』の天国篇についてウンベルト・エーコが、『マトリックス』だとでも思って読むと良い、などと言っていたのもそれであろう。或いは、古典の舞台を現代に置き換えるといった換骨奪胎の手法はしばしば行われるところだが、これもそうした読み替えの発展と言って良いかも知れない。その際、テクスト読解としての妥当性などは少し別の問題なのであり、極端な事を言うならば、逆にダンテが『マトリックス』を観たらどう思ったか、などを空想してみても、多分ダンテに迷惑はかからないことである。(まあそれなりの地獄には堕ちるのかも知れないが)

また、だからと言って現代だからこその読み方に拘る必要も無いし、無理をしてまで変わった読み方をしようと頭を捻るのもやや本末転倒の気味がある。意識して異なった明りの下に持ち出して見たり、様々な照明を想像してみるのも楽しみ方の一つであって、それが楽しいと思えばそうすれば良いし、楽しいと思わなければ敢えてそんなことをしなくても良い。そしてもし目先を変えてみようと望むならば、「時代」というのはその格好の素材である、という、僕に言えるのはただそれだけのことだ。

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