2011年9月13日

言語とアイデンティティーの面倒な話

「日本の町中でガイジンに声を掛ける際、いきなり英語を使うのは是か非か」という甚だ面倒な話題を見掛けた。

先ず第一に、日本語よりは英語の方が通じる蓋然性が高い、という認識は、一般に共有されていると見て良いだろう。

さてその上で、「○○国人の私に英語で声を掛けるとは不届き千万」と言う人がいたとしたら、それは「利便性よりも私の言語アイデンティティーを尊重しろ」という主張であって、これは中々面倒である。

また一方で、「日本語より英語の方が通じることは多いのだから、英語で話しかけて何が悪いか」と言う人がいたとしたら、「言語など所詮は手段に過ぎぬのであって、お前の言語アイデンティティーなど犬にでも食わせてしまえ」と言っているに等しく、これもこれで面倒である。

僕としてはこういう面倒な話には関わり合いになりたくないので、どうしてもという必要に迫られた場合、相手がどこの人に見えても、日本にいる限り取り敢えずは日本語で話しかけることにしている。まさか日本に来ていて「日本語で話しかけて来るとは!」と腹を立てる奴はあるまい。

それで日本語が通じなければ、誠に残念でしたで終わっても別に仕方のないことであると思うのだが、親切な人は他に自分の駆使できる言語の内から相互理解の手段を模索するのも宜しかろう。

そうしてその結果、真っ先に出て来たのが英語であったとしても、これはもう日本という国の言語状況がそうなのだと思って諦めて貰うより他ない。

結局英語を使うのだとしたら、最初に一度日本語で話しかけるだけ面倒ではないか、と言われるかも知れないが、はじめから面倒な話だと書いている。

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