2011年10月8日

雨傘

唐傘も和傘も同じものを指すらしく、日本の歴史に洋傘というものが現れたせいだろうか、なにしろ紛らわしい話である。

かつては傘の一字でもカラカサと読めたそうで、というか現にカラカサで変換してみると「傘」と出るのだが、これは日本語でカサと言えば元来、頭にかぶる笠の方を指した為であろうか。

単にカサと言うと蝙蝠傘のことを指すのが普通になってから、ああいうものが西洋から入って来る前に日本にあった傘、というので、洋傘に対して「和傘」という言葉がいつ頃か発生したのだろうと憶測する。手元の大辞泉を引いても和傘という語は載っておらず、ことえり4.1も変換してくれないので、そう古い言葉ではないのかも知れない。iPhone の辞書には登録されていた。

大学院のころ、伊文学の先輩に、雨の日には唐傘をさして歩いている人がいた。唐傘にも色々あるそうで、それが蛇の目だったか番傘だったか、そもそも番傘と京和傘というのが別か同じか、はたまたこれらの語は分類の仕方が違うものかも知らないのだが、ともかく今どき物珍しく、しかし見せびらかす素振りも無くて粋に思えたものであった。

どこで買ったものか尋ねた覚えがあるが、さてその答えは忘れてしまった。そうして値段までは気になりながらも何となく訊き逸れ、いま Google で通販を調べてみると、立派な専門店の物は凡そ一万円から、どうかすると四、五万円の物まである様だ。もっともこれは洋傘でもそれくらいの品はあるのかも分からない。しかし、土産物屋で売っている様な和傘は飽くまで飾りで実用には耐えない、などと脅す様なことも書いてあって、何とも難しい。

ところで僕は自転車に乗らないので分からないが、夜間自転車に乗っていると往々職務質問を受けるそうだ。同居人の言うところでは、所謂ママチャリに乗っていると特にそれが多いそうで、もう少し良い自転車に乗っていると格段に声を掛けられにくくなるという。

どういうことかというと、つまり盗難自転車にはママチャリの類が多いということであり、即ち誰かが自転車を盗む時には大抵ママチャリを盗むということだ。思うに、この心理は雨の日に店の前の傘立てから他人の傘を盗む際にも働いているのでは無かろうか。あれは単に勘違いで持って行ってしまっていることも多々あるかと思うが、意図して他人の傘でも持って行ってしまえという時には、やはり何となく、どこでも売っている透明なビニール傘を選ぶのではないだろうか。

足がつきにくいからそうするというより、特徴の無い、いづれも同じ様な傘の方が罪悪感が薄いのではないかと想像するけれども、人に尋ねたわけでもなし、実際の機微は判じ兼ねる。なんにせよ透明なビニール傘を盗んだところが本来の持ち主にとっては親の形見であったとか、そんな危険が少ないことは確かである。

無論、そこを遠慮したからといって褒められたものでは無いのであって、高々数百円とは言えど人の物を盗っているには違いないのだから、物盗りであり早い話が泥棒である。この様な泥棒が白昼堂々……雨の日を白昼と言えるのか知らないし、夜に行えば良いというものでもないのだが、ともかく大手を振って……傘を持っていたら大手は振れないか知らないが、なんにせよ良くある話で済まされているのは、物を盗んでいるという認識が希薄な気がしてならない。

しかもあれは大抵ちょうど入り用の時に盗む物で、概ね同じ時に同じ雨の降っている場所に居るのだから、盗まれる方にとってもちょうど入り用の時に盗まれる羽目に陥るので大いに難儀する。出掛かった店に傘が売っていれば入り直して買うか、或いは傘を盗まれて困るし忌々しいしの腹立ち紛れに、一つ傘立てから他の奴のを盗んでやろう、などというどうにもおかしな仕儀になって来る。

その場で買えば済む話と言ったらそれはそうで、自転車を盗むのに比べたら随分ましと言えないことはないが、まあ五十歩百歩と言ったところではあるまいか。少なくとも、傘立てから人の傘を窃盗する者は、万引き犯のことを兎や角言える身分ではないと思う。買えない訳でもないものを盗んでいるという点に於いては大差のないことだ。

なんの話であったか。そう、院の先輩の唐傘だ。この文を書きながらあれこれ考えていて、ふとその先輩の名前が思い出せないことに気が付いた。姿も声もはっきり覚えている、どんな話をしたかまで幾らかは記憶にあるのに、どうしても名前が出て来ない。なにか、橋を渡り終えて振り向くとただ渓間の暗い淵が果てしなく広がっているかの様な、薄寒い感じがする。

いやこういうものは今忘れていても、後になってみるとなんの苦労も無くスッと出て来たりするものだ、と内心にごまかしながら書き進めている内、拍子で一文字だけ思い出した。そこから、そういえばあの音楽家と同じ苗字であったと連想が働き、しかしその音楽家の名前が思い出せないので先ずはこちらの作品名を検索して、それで漸く判明したことはしたものの、こういうのは思い出した内に入らないかも知れない。

二日より後のことは考えられない、二日より前のことは覚えていない、などと常から嘯いているけれども、これは半ばまで実感である。つまらない様な事に限っていつまでも忘れずにいたりするので、知人からは良くぞそういうことを覚えていると間々驚かれるのだが、実際はもう数年前のことなど霧がかかった様に茫々としていて、自分がどこに居たのやらも分からない始末だ。

深く残らぬ先から洗い流されて行く様な記憶はまだしも、当たり前に覚えていたことがらさえ、久しい折に触れて思い出そうとしてみると、いつの間にやら掻き消されてしまっている。ただもう雨の中の足跡の様に頼りない。