2016年2月9日

熱引いて

結局測った限りでは 38.8℃ が頂点で、意外に早く熱が引いた。

それでも身辺でインフルエンザが流行っていることに違いはなく、症状が和らいだからといって油断すると周りにも迷惑が掛かるから、とりあえず近所の病院で診てもらうことにした。

鼻の奥に棒を突っ込まれる検査である。去年に引き続き二度目のことなので、心の準備は出来ていたが、嫌なものは嫌だ。長い棒が鼻を通って脳にでも達するんじゃないかというくらい奥へ奥へと際限なく侵入してくるのが恐ろしいし、激痛というわけではないが独特の不快な痛みがある。他になにか方法は無いものなのかと思う。無いからやっているんだろうが。

しかも、引っ張り出された綿棒の先を看護師が目視し、「あまり付かなかったのでもう一度」と言ってくるのも去年と全く同様だ。ただ、何故かやり直しは一切痛みもなく平気だった。

ときに、恐ろしいもので考え方が後ろ向きになっていると世間の人すべてが自分に対して悪意で接している様な気がしてくる。

看護師が苦痛を伴う検査を無慈悲に二度行ったりするのも、なにか個人的な罰なのではないかとか、陰性と分かったあとで医師が「罹りそうで罹らないねえ」と笑っていたのも、いっそ患いつくのが相応しいという含みだろうかとか、そんなことをかなり真剣に疑う。

いくらなんでもそこまではないだろう、というのは第三者的な視点では理解している。しかし、僕のことだからと思うと、それくらいに思われていても自業自得かも知れないという気持ちが拭いきれない。

こんなのは自意識過剰の一形態であって、僕などにそこまでかかずらっているほど世の中の人は暇ではない。といって、自意識に無頓着になり過ぎて、僕の言うことなど人には聴こえていないのと同じだろうという位の気持ちでいても、当然それはそれで人を傷付けたり無用な反感を買ったりするのだと、このところ痛感する。

現在の、電車の中で笑い声がすると自分が笑われているのではないかと考える様な精神状態は、中学生の頃の気分に極めて近く、多少懐かしささえ覚える。

一方で、周囲のことを全く考えない言動で他人の神経を逆撫でするというパターンに関しては、思い返してみれば記憶の遡れる限りから続いている様に思う。

昔から、調子に乗っているとか、生意気だとか言われても、どうしていいか分からなかった。後になって考えると自分でもどうしてそんな振る舞いをしたのか毎回不思議で、従って反省も成長もなく、ただ一時的な混乱を経て、個別の事象に対して否定的な条件付けが行われるだけだった。

かいつまんで言えば、どうやら僕は根本的なところで他人を不愉快にさせる性質らしい、ということで、しかしこれは別に新しい発見ではなく、長らく忘れていたことを思い出しただけである。

改めるべきだとは思うが、最早即座に改まるものとも思われない。さしあたり、周囲に余計な不快を与えず、平和裡に共存を図っていく上での短期的な方策は、やはり相互不干渉の原則ではないだろうか。

口は災いの門とはよく言ったものだ。あまり不自然にならない範囲で、僕としてはなるべく口を利かないことにする。それだけで幾分生きやすくなるのではないか。

そう上手くいくはずもないのだが、上手くいくと思わないと動悸が収まらない。けっこう追い詰められている。

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