その一方で、目前の問題を超えて何かを考えることが一切なくなったとも思う。
実効から考えると、これが最良の選択肢であると思う。僕がなにか言ったところで、別にそれが問題に貢献するわけではない。そもそも僕の方でも、誰へともなく呟くのに留まらず、積極的に行動を起こして何かを変えようという気もないのだ。
つまり、結局は別に現状を変えてやろうと本気で思ってはいないということだ。
そうであれば、直接にしろ間接にしろ働きかけるつもりもないことに対して、それでも発言だけするというのは、「一応問題があることには気づいていますよ」というポーズ以上の何でもないだろう。そんなことのために虚ろな攻撃性を振り回すというのは本当に空疎だ。
僕は既に人生というものを半ば諦めているのだと思う。強いてこの先どうしてもやりたい事はないから、例えばいつ死んでも特に悔いることもない。単に、死ぬのがひたすら怖いというだけで、あとのことは、最小の労力で結末を先延ばしにしている間の、言わば暇つぶしみたいなものだ。
たかが暇つぶしで無闇に腹を立てたり、あまつさえそれで人を傷付けたりするのは、無意味どころか害しかないだろう。
従って、目の前のことだけに関わって一日を終え、それを繰り返して行けるならば、恐らくそれが最良の選択なのだと思う。
もちろん、これが最良という結論になるのは、なにかこの世界で間違っていると思うものを正したいとか、問題や自分の願望に真っ直ぐ向き合おうという考えを放棄しているからだ。それが「人生を諦めている」ということだと思う。
その様な、何となく達観にも見えなくはない思考停止に落ち着いてしまったことに対して、うっすらと恥の様なものはある。明確な答えのないことに対して、答えがないことを知った上で、なお最善を求めて悩み続ける営みにしか、僕の考える「正しさ」は無かったと思う。それを手放してしまった以上は、いまさら何を言っても、すべて嘘と同じだろう。
しかし、それも最早どうでもいい様な気がする。
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