2016年1月16日

悪について

メモ:悪くない代官もいる(いた)

そもそも代官というものがその性おのずから悪であるならば、わざわざ「悪代官」と重ねて言うのは「悪泥棒」とか「悪ヤクザ」とか言うのと同じことになる。つまり、悪代官という言葉があること自体が、悪くない代官も少なくとも概念上は自家撞着なく存在し得ることを、高い蓋然性をもって示唆していると、そう論理的に帰着せざるを得ない。

よく考えてみれば代官とは一体なんなのか。山吹色のお菓子を貰って例の件をよしなにするのがその本来の役職ではない筈だが、では代官の正しい在り方とはどの様なものか、朧気な印象すら持っていないことにふと気がついた。

思えばこれまで生きてきて実際に代官と親しく付き合うことがなく、第一人称的に証言を得ることができなかった。交遊が狭いことの弊害だろう。

人付き合いの仕方については追々考えていくとして、代官を悪役にする伝統というのはいつ頃からあるものなのだろう。あるいは、なんとなく思っているほど普遍的な構造でもなくて、少数のテレビ時代劇のイメージが肥大化して流布しているに過ぎないのだろうか。

システムの腐敗によって市民が苦しんでいるが、腐敗しているのは飽くまで中間的な権力者である、というのは、市民側にも体制側にも言い訳ができるから、なかなか良くできているというか、ひとつの常套と言えそうだ。

実際に中間的な立場に置かれた人にとってはいい迷惑で、もはや山吹色のお菓子くらいしか人生に楽しみがないということになっても仕方がないかもしれない。

銘菓ひよ子とか。

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