2012年4月3日

他人の不幸で虎がうまい

本当は理由など判らないことに、一見納得しやすい説明をつける、言わば偽りの合理化とでも呼べよう行為があるが、しかしそれはそれで心の衛生には良い場合もある様に思うので、処世術としては一概に否定できまい。

とはいえ、「こういう人の本当の気持ちは」だのと根拠もない俗流の似非心理学を振り回す手合いには、どうしても無闇に腹が立つ。それで救われる人もあるのかも知れないし、また特段の実際的な害があるわけでもないだろうから、「またか」と思って適当に聞き流して置けば良い様なものであるけれども、なんだか癪に触って仕方が無いのである。

この矛盾した気持がどこから来るのかというと、やはりそうした似非心理学の言説に対して、なんらかのトラウマを幼少期に受けているのではないかと思う。

さておき久しぶりの投稿で、もう前の記事から四世紀くらいは経っている気でいたが、日付を見てみると五ヶ月そこそこであった。それにしても放置し過ぎには違いなく、そもそも自分のブログのアドレスが思い出せずに、Twitter のプロフィールから辿って漸く発見するという体たらくである。

書式としても段落はじめの行頭を下げていたかどうか、確かめてみるまで分からなかった。確かめてみた後でも、どうして下げないことにしたのだったか思い出せない。もとより大した意味のあるはずはなく、その方が見た目に良いと思ったからだろうが、改めて眺めたところで当時そう判断した感覚は格別甦ってこない。

だから何だと言うことでもない……というのがいつものことだというのは覚えている。一々オチを付けたり話をまとめたりしようなどと考えているとまた書けなくなるのである。別に誰に求められて書いているわけでもないのだが。

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